
おそらくどんな映画をみてもけなすことから入るであろう、友人3人と見た。 で、いつものとおりネタバレしますよ。
去年の秋に原作を読んで、正直具合がわるくなった。 僕には少し重い小説だった。そんな原作を押井監督がどう映画に仕立てたのかに興味があった。
原作はシリーズもので、物語のなかの時間軸としては最終巻にあたる「スカイ・クロラ」では 永遠に子供のままだというキルドレの秘密については匂わせる程度で終わるが、 映画ではその部分が少し強調されている。
映画としては少々退屈な部類に入る、すくなくとも初見では。 見どころといえば空戦シーンだが、主人公の胸のすくような活躍がそれほどあるわけでもなく、 単にかっこいいなぁぐらいの印象しかない。
映画のなかで登場する「ティーチャー」は、永遠に年をとらず子供のままであるキルドレに対して、 大人の男として決して倒すことのできない敵、壁として立ちはだかる。 そしてキルドレにとっては、大人になることは酒でもタバコでも女でもなく、 ティチャーを倒すことで、自分たちの限界を越えることに他ならない。 キルドレの主人公ユーイチは、変わらない生活、変わること(=大人になること)への疑問とともにティチャーに向かっていき撃墜される。 撃墜され死んでしまえばキルドレの人生は終わるが、パイロットとしての技能と癖だけが新たなキルドレに移しかえられ、再び戦争をする。
もう一人の主人公クサナギスイトははじめは生命感のなく(棒読みのような)喋るが、 ユーイチとの時間を過ごすうちに徐々に人間味を帯びた声になり、 歴史を見守れというような主人公の台詞をうけ、生きつづけることを選択する。 おそらくは、過去に1度、そしてこれからも繰り返すであろう、ユーイチ(的人格)との邂逅は、 クサナギスイトがキルドレでありながら子どもを生むというタブーを犯したことでの、 いつかキルドレがティーチャーを倒す日(歴史が変わる日)まで生きつづけなければならないという業のように思える。
ティーチャーが単なる大人ではなく、大人の男、という点にエディプスコンプレックス的な匂いを嗅ぎとって、 キルドレの繰り替えされる永遠の戦いと母親的または巫女的なクサナギスイトという 神話的な物語として深読みもできないことはないとおもうのだが、それは監督の意図ではないように思う。 (ちなみに長老に相当するのは、整備士の笹倉)
僕は原作を読んで、生命の有限性と純粋性と引き換えにした老いの必要性を感じたのだけれど、 大人に挑み、死に、リセットされ、再び繰り返すという点がより強調された理由が、正直、理解ができない。 僕は誰にも感情移入できないし、何のアナロジーも見出せない。 不可解さや消化不良というよりも、どう味わえばいいのかがわからない。 たしかに抜け出せない閉塞感は感じるし、ヒントもたくさんある映画なんだけれど、 解釈が浮かんでこないのは自分が映画の対象年齢から外れているからではないかと思っている。 もっと若い年頃にしかないレセプターにのみ(強烈に)反応する映画なのではないかと。 もしかしたら、逆18禁的な映画なのかもしれない。そう願いたい。なんとなく。
