先月の話なんですけどね、なんか遠い昔みたいな話になっちゃいました。
あの話題の何がダメだったのか、無い知識でときどき考えていたけれど、備忘録として書いておくことにする。
あのニュースを最初に聞いたときに思い出したのは、恥ずかしながら、パトレイバー2の「柘植」なんですね。
映画の柘植のようなクーデターでもテロでもないんだけれど、田母神氏の発言や論文からは、
彼が持つ現実や歴史観に対するいらだちみたいなものを感じたからです。
で、論文を斜め読みして、要旨や解説を新聞で読んだけれど、確かに稚拙だと思いました。論文というより感想文じゃない?みたいな。
でもむしろ僕は、みんなが批判する内容云々というよりも、加藤陽子さんの「戦争の日本近現代史」にあるような、
歴史には「出来事=事件」だけでなく「問題=問い」があり、そのような
「問い」のかなりの部分は、時代の推移とともに人々の認識や知の型が、がら
りと変わるのはなぜなのか、あるいは、人々の複雑な行動を生み出すもととなっ
た深部の力は何なのか、この二つの問題を考える点に集中する(中略)太平洋
戦争だけを取りあげて「なぜ、日本は負ける戦争をしたのか」との問いを掲げ
てみても、「正しい問い方」をしたことにはならないのではないでしょうか。
(中略)「なぜ、日本は負ける戦争をしたのか」「なぜ、日本は無謀な戦争に
踏みきったのか」といったような問いが、なぜ「正しい問い方」をした問い方
でないかといえば、そうした問いは、もし日本が戦争に勝利したとしたら問わ
れることのない地点から発せられている問いだと思われるからです。(本書で
は一部傍点つき)
というような観点がさっぱり感じられなくて、得るものが何もない空虚な論文であるという印象をもちました。
実際、最初から最後まで間違ったこと書いてるけど将来に向けて傾聴に値する点が・・・、みたいな批評はほとんどなかったとおもいます
(だから、論文ではなくて感想文なのかもしれません)。単なる反面教師的な扱いをされてしまっただけです。
歴史論文であったとしても、そういった現実に対する具体的な要求や提案がないこと(あえて書かなかっただけかもしれませんが)は、
先の映画の最後に柘植が言った
「もう少し、見ていたかったのかもしれんな(略)この街の、未来を」
という台詞と共通するもので、それは、一発(論文)かましてみたけど後はどうなるか知らない、ということです。
つまり、おっさんが「わけぇの、おまえらの考えはまちがってんだ。本当はかくかくしかじかでな。あとはおまえらやってけ」という感じです。
現実に対する危機感があることはなんとなくわかりますが、責任感(という言葉は好きじゃないのですが)、
その手の覚悟みたいなものが感じられません。
映画だと余韻を残して綺麗にまとまりますが、現実ではフォロワーの出にくいやり方であると思いますし、
この件で田母神氏が一時的に有名になることはあっても、今後思想的な影響力を持ち続けることはないでしょう。
せめて、退職金を使って私塾をつくる、みたいな話を嘘でもすれば人が集まったかもしれませんが、
財布が苦しいから貰う、とか言ったので、正直その程度どの人でよかったなぁと思います。
もうひとつ引っかかっていたのは、参考人招致で「言論の自由がある」と言っていた点です。
言論の自由はなにより尊重されるものであるはずですし「言論が不自由」な状況なんて考えたくありません。
一方、何でもいっていいはずはありません。私には業務上の守秘義務やプライバシーを守る義務があります。
今回の一件は、文民統制と言論の自由が天秤にかけられていたはずなのですが、マスコミは「言論の自由のはき違え」としかいいません。
えー、一体どうはき違えてんのよ、というのが素朴な疑問でした。
内田樹氏の言論の自由についてとか読んでみても、
結局「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利には賛成だ」(ボルテール)の若干の焼き直しだし、
「文民統制」がどんだけ大事かは、ソマリアとかの失敗国家を見ればわかることだし...と思っていたところで
なぜ文民統制は繁栄を導くのか?に、
責任ある立場にあった自衛官が、公的な武力の職掌にありながら、国会の場で「言論の自由」を主張する時、国政に与るものは法に照らして適否を示すべきです。またマスコミなども、あいまいな基準でなくルールに則った議論をすべきと思います。「言論の自由」のはき違えには、本質的には憲法に即した解釈と訂正がなされるべきで、必要によって最高裁以下司法権の判断が下されるのが、「法治国家」であり、経済的に一等国の信用も持つ日本として、本来取られるべき姿勢だと思われます。
と書いてあるのを読んで、自分には手に余ることを考えていたことに気がつきました。
ま、そんなわけで備忘のためにかいてみたわけです。