死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う / 森達也
朝日出版社
世界が完全に思考停止する前に (角川文庫) / 森 達也
角川書店
「世界が〜」を読んだあと「死刑」を読んでみると、森さんがどうして死刑を取り上げたのかがなんとなくわかる。
「世界が〜」で扱われたのは第三者が一人称で語ることの危険性、
言い換えれば第三者が事件や事故そのものやそれらに付随する物語に仮託しすぎることの危うさだ。
それは想像力の欠如または過剰であり、それによる冷静さを欠いた第三者となる。
死刑という制度はそういったことが常に渦巻く事柄であり、
そして私も含めて普通の人には、おそらくその実態がまったく知られていないのに、
しかし誰でもそれを知っているという不思議な存在だ。
たぶん、執行猶予を知らない小学生でも死刑は知っているだろう。
この本で森さんは死刑存置と廃止の間でひどく悩む。読んでいると痛々しいほどだ。
ずっと「どうなんだ、どうなんだ」と自問自答しつづけている。
その姿はドライなエッジはかけらもなく、鈍く、重く、じっとりとしている。
本書では自身の立ち位置を「綿ぼこりのようにふわふわと」と書いているが、とんでもない。
その意味ではこの本は「事実を描くドキュメンタリー」とは言いきりにくい。
いわゆるドキュメンタリーよりもずっと湿っぽく、
「森達也」フィルターが強すぎるのだ。
ただ、森さんはそれで良いと言うだろう。
それが自分の書くドキュメンタリーだと言うだろう。
その論理よりも情緒を優先する姿に僕は引き込まれ、今まで知らなかったこと、
考えもしなかったこと、無意識に避けてきたこと、考えなければいけないことの数々に少々戸惑う。
本書でかかれている
「死刑は不可逆であり遡及性がない。執行した瞬間にすべてが終わる。
(中略)死刑は形而上においても形而下においても、他の刑罰に比べればあまりも突出して、さらに逸脱している」
という表現は、当たり前すぎることが書いてあるが、死刑に関する論理と情緒の境界があるように思う。
死刑によって、贖罪の気持ちもそれを生む存在もなくなり、現実に赦しを与えることもできなくなる。
冤罪であれば取り返しがつかない。
一方、本書でインタビューをうけた遺族は「同じ空気を吸いたくない」とも言う。
なぜ罪を犯したのか、社会へ還元されることもなくなる。
また、突出して、逸脱していることに対して、
人によっては、有期刑との連続性のために終身刑を望むのかもしれない。
たとえ有限刑でも20年も牢屋に入っていれば、実質上社会的には死んだも同然だ、とも言える。
国家が殺人という罪を犯していいのか、という反対派の理屈にもつながる。
それではその瞬間に終わってしまう刑罰に、
一つに決められないかもしれないが、本当はどんな意味があるのだろうか。
そもそも刑罰ってなんだ、というふうに形而上的な問いかけが自分のなかで始まってしまう。
もうひとつ、本書では死刑に仕事として直接関わりをもつ人のインタビューが載っている。
形而下で死刑と接する人、検事と刑務官、教誨師だ。
共通して、死刑囚を目の前にすることに苦しんでいる。仕事だから、というただ1点で感情を抑え込んでいるように思えた。
インタビューをうけた教誨師は執行前に死刑囚を抱きしめたという、そして執行後に刑務官から
「先生はあいつを抱きしめてくれた。我々はそれができない。でもここにいる全員ができればそうしたいと思っていました。」
と伝えられたそうだ。森さん風にいえば、滲む、理屈で抑えきれないものが滲んでくる。
本書の森さんの結論(存置)、そこに至った道のりにはまだ納得できないところがあるし、
この少々情緒的な本だけを死刑是非の判断材料にするのは危険だけれど、
ただひとつ、僕は死刑が叫ばれる事件に便乗して軽率に「死刑だ」とは言えなくなった。