Fri, 05 Mar 2010

好みの音楽と出会うためには

ガジェット通信 スクエニ社長がファミ通レビューに衝撃発言「あー言っちゃった」 から引用

「ファミ通の評価をどう思いますか?」というゲームファンの質問に対して、「活かすための読解力でしょうか^^  この人がこういうトーンで書いているという事は・・・とか。あー言っちゃった」と返答している。(中略)週刊ファミ通の『クロスレビュー』はゲーム購入者の評価とかけ離れている点数や評価の場合があり、「もう信用しない」という読者まで現れているほど。

ゲームはしないので、ファミ通のクロスレビューがゲームファンのなかでどういうふうに捉えられているのかは知らないけれど、おそらく音楽ファンも、年に100枚くらいに「史上最高」を連発するような音楽雑誌のレビューには一言二言、言いたいことがあるんじゃないだろうか。

実は、僕自身は、音楽雑誌と呼ばれる雑誌をほとんど買っていない。ネットやショップで情報を仕入れているし、某音楽雑誌にある(今もある?)「xxx2万字インタビュー」とか受け付けないからだ。 とはいうものの、こんな風にひねくれる(?)まえ、かつては毎月ちゃんと雑誌を買っていたこともある(お金がなかったときは立ち読みもたくさんしたけど)。 その結果は、雑誌全体では信じられないことも多いが、(特定の)編集者だけは信じられる、という単純なものに至った。

これまた当たり前だが、信じられる編集者とは、自分と同じものが好きな編集者、自分と同じような感覚を持ち合わせる編集者に他ならない。僕の場合は、elekingやremixの編集長、野田努さんという方が、まさにそれだった。他の人のレビューの点数が低くても、野田さんが高得点を付けた作品は僕には素晴らしかった。僕が好きな音楽を、野田さんが記事のなかで取り上げていたこともあった。

もちろん、野田さんは僕の100倍くらいの音楽を聴いているに違いない。僕の好みが、野田さんの広いアンテナの小さな共通部分であったことに違いはないが、とにかく自分の感性が雑誌を通して伝っていくような、伝わってくるような、そんなうれしさがあったことをよく覚えている。

今、音楽雑誌を買っていないし、読んでないから、野田さんがどんな音楽を好んでいるのかは分からない。ネットで復活したelekingのレビューを読む限り、遠くには行っていない感じがする。

レビューなんて気にするな、とか思わないし、好きなレビューワーを見つけるのにじゃんじゃん読めばいいと思う。ただ、ゲームも音楽も「この人がこういうトーンで」なんて大人びた読解力と裏読みは似合わないとも思うけどね。

なんか、ブログのタイトルとかけ離れたので、一つ具体的に。自分の好きなアーティストが好きな音楽、これを辿れば外れがないです。散財への道ですけど。

posted at: Fri, 05 Mar 2010 01:45 [blog] permanent link/comments(0)

Sun, 31 Jan 2010

ゴールデンスランバー(ネタバレするよ)

ゴールデンスランバー

ベストセラー作家伊坂幸太郎氏により、空き巣、通り魔、動物虐待、殺人なんでもござれの犯罪都市に仕立てられてしまった仙台市。 そこで起きた史上まれに見る大事件、首相暗殺事件が映画の舞台。 映画は、この大事件の犯人に仕立てられた男、青柳(堺雅人)の逃亡劇として進む。

と、書いてみるとなんだかスリルとサスペンスな話に感じられるのだけれど、 逃走劇として見ると、平凡かそれ以下。 派手なカースタントや、手に汗握るアクションと呼べるものはほとんどなく、 アクションシーンを下支えするはずの刑事(永島敏行)はどこかコミカルで、 犯人と警察の「息詰まる」ほどの駆け引きもない。 さらに、犯人に仕立てられてしまった主人公に感情移入できるような材料はほとんど何も提示されない。 たとえば、主人公の恋人が殺されてしまうとか、不条理な状況にさらに不幸が襲うようなありがちな状況が、ないわけではないが、どうも薄い。

思うに、映画として首相暗殺事件は大きなマクガフィン、 つまり、主人公が窮地に陥るという設定の下支えとして、多少の説得力があればよいのであって、 とにかく無理矢理犯人にさせられるような窮地に陥り、ストーリーのなかで大々的に報道されれば、事件は市長暗殺だろとコンビニ強盗だろうとなんでもいいのだ。

むしろ、映画で繰り返し使われる、イメージという言葉を中心にしてマスコミ、警察など主人公を追い詰める集団に対し、 主人公の父(伊東四朗)の言葉を借りれば、主人公を「信じているのではなく知っている」という1点で イメージにとらわれず主人公に協力する人間が描かれる映画、というほうがピッタリくる。 そして、逃走シーン以上に多用される大学時代の回想シーンや元恋人との思い出、仕事仲間とのやりとり、マスコミに登場する父の話によって、 観客は主人公と協力者の過去を「知り」、協力者へ感情移入することができるという人情劇なのだ。

スリルとサスペンス、カタルシス、そういうものを過度に期待しないで、2時間オーバーのテンポよく流れる人情劇として観に行って、 そして、信じられると知っている人を思い浮かべて帰るのが吉。

posted at: Sun, 31 Jan 2010 00:34 [blog] permanent link/comments(0)

Mon, 11 Jan 2010

大人になるって(松尾スズキさんのインタビューから)

1/9朝日新聞朝刊のオピニオンに掲載されていた、松尾スズキさんのインタビューがとっても面白かったので、感想なぞつらつら書いてみます。

インタビューは、18歳成人案を切り口にして、松尾さんの大人感や社会批評(的)なもの。 そのなかで、まず共感というか、妙に納得したのが、次のコメント

(インタビュワー)「大人になる」って?
(松尾さん) 「そこの定義は、自分のなかでものすごく変わりました。『大人失格』を書いたころは、たとえ毎日がどんなにつまらなくても、その現実を受け入れるのが大人だと思っていました。当時、30代前半で、常に『面白いか面白くないか』を問い、面白くないと、息が詰まりそうになって、面白いものに逃げてた。そんな自分を、まだまだ未熟だと考えていた」

僕はその30代前半で、同じように『面白いか面白くないか』を問う、という姿勢をとってしまうが多いです。この仕事面白いかな?面白くないな、面白い生活したいな、そんな感じ。 たしかにつまらないと息が詰まる。実はもっとつまらない仕事をしていたはずの20代より、息の詰まり方がずっと強烈になったと感じます。 だから、周囲を見回して、つらい仕事もこなし、家庭ではよき父、母なんていう人をみると「大人だなー」(=すごいなー)って尊敬してしまいます。

そうそう、たぶん、大人っていうのは尊敬の対象なんだとおもいます。

インタビューの次はこうです。

(インタビューワー)今の「大人感」はどうでしょう。
(松尾さん)「世の中にここまで希望がなくなって、豊かさもない、つまらないじゃ、ホントに、つまらなくなっちゃう。今の大人はむしろ『つまらない』といわない人だ。どうしようもない状況においても、自分の中に『面白い』といえる価値を作りえた人が大人、と思えてきた」(中略)「周りが面白がるものが生み出せれば、つらさも面白さに還元される」

なるほど。苦虫をつぶしたような顔で日常をやりこなすぐらいなら、面白さをみつけたり、たとえ自虐的になったとしても周りを面白がらせるほうがいいのかもしれない。 あんまり自虐的なのもつらいから、ふりぐらいにとどめたいけれど。

30代前半の僕は、心のどこかで「面白さ」が所与のものだと思っちゃっているんだろう。 辛い仕事も楽しいところが結構ある、面白さが与えられるものではないっていうのは、今まで何度も経験したはずなんだけれど、ついどこか忘れてしまうのか、 まだ『面白い』といえる価値が作られてないのかもしれない。

そしてインタビューの後半、お笑いの話になって

「(中略)今の日本はあまりもコミュニケーション重視。特にテレビのバラエティーとかは、空気を読む能力を極限までに求められる」

たしかにそう。ちょっと外したコメントをすると「あーぁ(残念)」っていう反応。期待通りのコメントで、期待通りの計算された笑い。ヒネリだって想定内。

勝手な考えなんだけれど、空気を読んだり、期待通りの結果って、子供が好きなんだよね。 子供って無意識に空気読むし、おもちゃが動いてくれないと怒ったりするし。 子供が成長して少し自我がでてくると意識的に空気を読み始めて、さらに大人になると「コミュニケーション能力」ってことでトレーニングしないといけなくなる。

空気を読むってのは、自我のぶつかりあいを避ける処世術の一方で、結局自分の価値観、面白いものを作るのを遅らせる、子供に留まる副作用があるのかもしれないね。 仮にそれが正しいとして、空気を読まないイレギュラーな行為をどうするか、つまらない、腹立たしいと放り出すか、笑って肯定するかが松尾さん的大人の分かれ道なのかもしれない。 現実的に、空気読むなんて関係ない、とはなかなかいえないけれど、同じ空気をまとう集団やルールから外れたって面白いのはいいんじゃない、面白くしようよと言えるのは、たしかに相当大人だよね。

そういう大人めざそかな。空気読むなんてお子様のすることさ〜って。

posted at: Mon, 11 Jan 2010 22:27 [blog] permanent link/comments(2)

Tue, 15 Dec 2009

RE: over HTTPな異種間結合の松竹梅って?

Tamのover HTTPな異種間結合の松竹梅って?に対するコメントです。

若干、抽象的かつ技術的じゃない話をします。

全体最適化という言葉は意外とくせ者で、「全体最適」されたすばらしい世界(システム)があるような気がしてきます。実際、僕もナイーブにそんな世界を考えていたころもありました。

けれども、私の狭い見聞のせいかもしれませんが、そんな世界(システム)は今の今までみたことはありません。

なぜ無いんだろう?と考えたときに気づいたのですが、そもそも、企業や組織の「静的」な全体最適されたシステムを思い浮かべていたのだと気がつきました。 そもそも全体最適「化」なんて、まるで全体最適された状況が実在するような言葉の使い方です。

一体だれが全体最適、全体最適化されたシステムを決めているんでしょうか? 一つの答えは「経営戦略」、もしくは「経営者」です。かっこよく「ステークホルダー」とか言う人もいるかもしれません。 これは、まあ正しい答えですよね。経産省もそう言ってます。

さて、その経営者、経営方針、ステークホルダーは「静的」なんでしょうか? さらに全体最適化されたシステムはコンプライアンスも求められます。つまり法令と世の中ですね。 そうムリ、ぜったい静的な状況なんてあり得ない。 「静的」な全体最適なんて、その土台が動的なのですから、ぜったいあり得ないわけです。

じゃ、全体最適って虚構、空想、妄想なのかというと、むしろ「動的」な全体最適であれば実在すると思っています。

静的で堅固な素敵で存在しないシステムではなく、適切な組織体と職務分離があり、社内だからといってHTTPSと認証だけにセキュリティをまかせず(ファイアウォール必要という意味ではなくて)、システム投資は検証して、情報資産の棚卸なんかしちゃって、BCPも必要に応じてやってみたりして、ときどきそれらを振り返るという泥臭い人間系の話とSOAP/HTTPのような比較的柔軟に構成や仕組みを変更できるシステムが、噛み合うよう「努め」得られた一定の結果(NOT完璧な結果)が全体最適だろうと思っています。

Tamが引用している、全体最適化ばかりが、SOAP/HTTPの生きる道ではない。 (るいもの戯れ言)

そのココロは単純で、企業がデカくて、企業全体の統制がとれていなければ、社内のシステムはバラバラなわけだ。つまり自然と異種結合が重要となる。そこへ SOAP/HTTPはうってつけなのだ。そこには全体最適化という究極の目的は存在しないのだけど、てっとり早く、異種のサーバ、クライアント間をつなぐ技術は、他に存在していない。

の文脈でいえば、企業全体の統制が取れた結果のキレイに統合されたシステムが全体最適化ではなく、企業が能動的にコントロールしているときの企業システムが全体最適化されたシステムといっても、万人から満点はもらえないかもしれませんが、そこそこ外れている答えじゃないだろうと思っています。

posted at: Tue, 15 Dec 2009 21:31 [blog] permanent link/comments(2)

Mon, 30 Nov 2009

ゼロの焦点、ネタバレ話。

ゼロの焦点の感想を嫁に話したら「そんな風に映画をみたらつまんなくない?」と言われしまったことを、先日ブログにのせました。

公開してから半月経つので、その印象深かった場面について書いておきます。 めっちゃクライマックスのシーンなんで、ま、ネタバレです。

それは真犯人室田(中谷美紀)が自分の過去を知る田沼(木村多江)を海に突き落とそうとするシーン。

海を背にする田沼を突き落とそうとする室田を正面から写すカットがあるのですが、カメラのピントが微妙に揺れてるんです。 おでこや頬、鼻と微妙にうごきます。これは田沼からみた室田のようにも見えるのですが、 このカットの最後はカメラの焦点は室田の目にとまるのですが、これは実は室田自身の迷いを表すともとれるのです。 迷いが消えて、突き落とすことを決意する瞬間、と同時に突き落とされることを許したような感覚も味わえるカットでございました。

前後して、二人を崖の上、真上から見下ろすカット。 辺りは明かりのない海岸線です。スクリーンの下側は海、スクリーン左下のガードレールの切れ間に立つ田沼、その前(スクリーンの上側)に立つ室田、 室田から少し離れた右側からは室田の車のヘッドライトが斜めに二人を照らします。

この人物の構図だけで田沼は落ちて死ぬ運命にあるのが分かるのですが、 スクリーン右上にある車が象徴するのは、裕福な家の婦人となり女性運動に身を捧げる室田の成功であり、 その車からの二人を照らすヘッドライトが、忌まわしい過去を持つ二人を照らしています。 そして、ヘッドライトの光の外は真っ暗闇、室田の生きていくには今の成功をただひた走ることしかない、 光の外に外れたら最後、暗闇のなかに落ちてしまうといっているようです。 つまり、室田の殺意の源泉は、現在そして将来の成功を守るためであることがわかるカットでございました。

posted at: Mon, 30 Nov 2009 22:57 [blog] permanent link/comments(0)

Wed, 18 Nov 2009

事業仕分けを聞いてみて

ニュースでも話題になっているし、科学関係でもあったので、スーパーコンピューターの予算を削減した事業仕分けの音声ファイルを聞いてみました。

報道を見る限りでは、事業仕分けはそんなに間違ったことをしてないと思っています。 実は予算決定権はない、1時間では乱暴、財務省主導などの批判ももっともだと思いますが、 縦割りの予算案に対して重複を指摘するなどのムダ削減を目指す姿勢は評価できるとおもいます。

ただ、議論の流れを聞いていると、疑問に思うところが2点ありました。 (スーパーコンピューターに関する議論を聞いただけなので、すべてに当てはまるわけではないとおもうですが)

まず、1点目。事業仕分けについてのルールや論点が仕分け人、対象事業側で共有されていないのでは?と思いました。 次世代スーパーコンピューターに関する仕分け人の論点は明快です。

  • ベクトル、スカラー複合型の計画が変更になっても問題ないとして続けるのはなぜ?
  • ランニングコストと初期投資の費用対効果はどのくらい?

これって、普通の会社なら、新規案件の稟議やプロジェクト継続についての議論で必ずでる話です。 というか、これしか出ませんし、この2点が明快であれば話は通ります。

一方、文科省と理研側は「科学技術の進展」「世界一」「競争力強化」といった定性的な回答を続けるばかりで、まったく戦えてませんでした。 一般企業なら「趣味でやってんじゃねーよ」と一撃を食らうような回答です。 話題の「世界一でないとダメなんですか?」も意図するところは「世界一の費用対効果はどのくらいなんですか?」と受け取れました。 そうしたら、役人側は胸をはって「3兆円の経済効果があります!」とか答えれば良かったんです。

でも、なぜその準備をしてなかったのか、素人感丸出しの「世界一でないとダメなんですか?」に諭すように答えられなかったのか。 想像ですが、おそらく、役人側はこんな議論の場だとは思ってなかったんじゃないでしょうか。 事前に、一般企業で交わされるようなお金の議論ですよ、というかお金の話だけしますよ、仕分け人は素人ですよ、数字で答えてくださいよ、 ということがきちんと共有されていなかったんでしょう。 それは今までの答弁に慣れた役人側にも責任があるのかもしれませんが、ルールと目的を共有する、 つまり議論をフェアに進めようという意識が仕分け人側あったのかどうか、かなり疑問です。

フェアでない場で出た結論は、正しい結論であっても、採用してはいけないのが民主主義じゃなかったでしたっけ?

もう1点。先の話の裏返しなんですが、仕分け人は定性的な事柄をどう評価するつもりなんでしょうか。 国は会社ではありませんから、費用対効果がマイナスなものでも性格上必要な事業であれば実行しなければいけません。 会社ですら時に投資プロジェクトということで赤字プロジェクトを進めたりします。 そういった基礎研究や福祉、将来投資など経済価値が計りにくい事に対する評価基準が不明確(仕分け人の気持ちと理解度次第にみえる)というのは、やっぱりフェアではないと思います。

さらに民主党は、子ども手当政策を「子どもは『未来の担い手』であり、将来の社会保障は子どもたちにかかっている」という、先の文科省の回答と同じレベルの理由付けですすめています。 誰の目にもあきらかですが、子ども手当に経済的効率をより求めるなら所得制限や家計に占める養育費の割合なども考慮、分析に入れるべきにもかかわらずです。 これは民主党はマニフェストの案件の予算は定性的な面で評価し、それ以外は定量的な観点で評価するという、一種のダブルスタンダードなんじゃないの?という疑問を強く抱かせる議論に感じました。

posted at: Wed, 18 Nov 2009 01:26 [blog] permanent link/comments(0)

Sun, 15 Nov 2009

ゼロの焦点

ゼロの焦点

宣伝と中谷美紀につられて見に行ってきました。ネタバレするよ。

一番の感想はというと、中谷美紀美人につきる。 やっぱり、オレ的に常にNo1に輝くだけはある。(笑)

金沢の工場で、登場するシーンは、まさに「ファムファタール」。 そして、二度のクライマックスの表情、目力ったらありません。若干妖怪人間ベラっぽいが。

そういう彼女の演技が象徴的なのかもしれないけれど、映画全体的に味付けが濃い。 日本海の荒波と暗く重い雲から舞い落ちる雪。
横溝正史か?と思わせる赤いコートの女と殺害シーン。
明暗をハッキリ打ち出すライティングや、粒子の荒い映像での回想シーン

さらに、若干舌足らずの新妻(広末)に決して笑顔を求めず、 薄幸オーラ全開の木村多江に不幸をトッピングして、 最後に中谷の綺麗な顔を傷物にする演出。
うーん、監督のSっ気満載。

そういう映画です。原作は違うとおもいますが。

ほかにも、おおぉと思う演出が幾つかあったので、 嫁に話したら「そういう風に映画をみたらつまんなくない?」と言われてしまいました。がっくし。

posted at: Sun, 15 Nov 2009 16:16 [blog] permanent link/comments(0)

Fri, 09 Oct 2009

20世紀少年<最終章>が表現できないもの(メチャクチャネタバレするよ)

20世紀少年

最近映画を見ると疲れるから、避けてたんだけれど、久々に映画を見てきた。 久々の映画が20世紀少年で、1章も2章も見ていないのはあれだが。

先に言ってしまうと、ともだちは、カツマタ君であり、その結末は原作と変わっていない。ただしそこに至るまでの謎を解く鍵が違っている。

映画も原作も、バーチャルアトラクション内でカツマタ君がケンジが校内放送でながしたTREXのTwenty Century Boyを聴いて自殺を思いとどまり、ケンジと言葉を交わす場面で終わるが、映画では例の「グータララ、スーダララ」のフレーズを付けたのはカツマタ君になっている。原作では、そこまでの交流はない。

これが(物語のなかの)事実かというと、たぶん違っていて、カツマタ君(=ともだち)の願望の可能性が高いとは思う。しかし、このエンディングのおかげで、カツマタ君からケンジへの思いが強く印象づけられ、万引き事件を境に行われるカツマタ君へのイジメと、ケンジとのこの邂逅がともだち誕生とその後の計画に繋がっていくのだと理解できる。

原作では、結末はにているものの、ここまで明確な提示はなく若干尻切れトンボ的な感じもあるのは事実。

それでは映画が面白いかというと、実はあんまり面白くない。 いや、正確に言うと、原作を先に読んでいるので、どうしても原作のほうが面白いと感じてしまう。 これは漫画のもつ性格と、映画のそれとの違いに原因の一つがある。

漫画の原作は週刊連載であり、ほぼ毎週なんらかの山場や次週への期待感を持たせて終わらなければいけない。特に浦沢氏は、強い余韻を残す終わらせ方を多用し、読者に強い印象をもたらすのが巧みな作家である。週刊雑誌で読んでいると、ページをめくって次の漫画を読むのが惜しくなるような、そんな漫画を描く。

一方映画は、かなり長尺にしているのだが、それでも原作が持っていた「余韻」が随分とそぎ落とされてしまっている。全体的に駆け足感が強い。スローテンポにしてほしいところでテンポが落ちない。あっという間に話が進んでしまう。

しかし、これは映画が悪いわけではない。映画のなかでテンポを落とすとしたら「溜め」か「山場の後」が常道だが、2時間の話のなかでは、そうそう連発できるものでもない。必然的に原作のもつ余韻=時間が表現される余裕はなくなり、物語は速度は増し、ともだちの謎へと向かうしかなくなり、物語がどうしても薄くなってしまっている。

という感じで、原作ファンとしてはどうしても辛口にならざるをえず、原作のもつ面白みが半減していると感じてしまうのである。

本当は3部作ではなく4部作がよかったんじゃないかな。

posted at: Fri, 09 Oct 2009 22:13 [blog] permanent link/comments(0)

Tue, 22 Sep 2009

OECDの教育に関する報告データが興味深い

まだ子供いませんので、教育に関する話は「いまそこにある危機」ではなく「そのうちふりかかってくる危機」なのですが、先日ニュースで話題になったOECDの図表で見る教育2009が気になったので、OECDの基礎データ、特にChapter D: The Learning Environment and Organisation of Schools(教育環境)のデータを眺めてみました。統計で他の国との比較ができるのが興味深いです。(好奇心からです。批判するほどの材料は持ち合わせておりません。)

教師の労働時間と授業時間

ときどきニュースになりますが、日本の先生は忙しいらしいです。友人の英語教師(アメリカ人)も日本の先生は忙しすぎると言っていました。他の国と比較してどうなのか、というのは Indicator D4 How much time do teachers spend teaching? にデータがあります。小学校の場合

年間の授業の週 授業時間(年間) 労働時間(年間)
日本 40週 705時間 1960時間(法定労働時間)
米国 36週 1080時間 1332時間

と並べると、日本は・・・と言いたくなりますが、意外と年間授業時間700〜800時間台の国というのは多いですね。ただ、そのなかでも日本は下のほうですし、さらに年間の労働時間が1960時間というのはトップ。

いろんな報道を見る限り、日本の先生は授業時間以外に何をやっているんだ?という疑問は間違いなんでしょうね。ただしくは「日本の先生は授業とはあまり関係ない仕事をどれだけやらされているの?」だと思います。

教師の給料

なんかいっぱい働かされて、本来の仕事ができてないっぽい日本の先生なんですが、お給料の統計(Indicator D3 How much are teachers paid?)もでています。小学校の場合、

初任給(USD) 15年経験(USD)
日本 27,284 48,742
米国 35,907 43,633

初任給はアメリカに負けてますが、経験を積むとアメリカを逆転するみたいです。給料トップはルクセンブルグの$68,720ですが、これは突出してるっぽいです。日本の先生のお給料は他の国と比べると平均(15年経験で$39,007)より上の方ですね。(特に年数が経った場合)

クラスの規模

じゃ、どれだけの子供を相手にしているのかというと、これもよく話題になる学級規模ってやつですね。Indicator D2 What is the student-teacher ratio and how big are classes? がデータっぽいです。小学校の場合、一クラスあたり

公立(人) 私立(人) 全体の平均(人)
日本 28.1 33.0 28.2
米国 23.6 19.4 24.9

となっています。1クラスあたり30人を越えているのは日本と韓国だけです。なんだろう儒教の影響ですかね。

先生の構成比

構成比ってのは正しくないか、男女比、年代比などの統計もでてます。(Indicator D7 (Web only): Who are the teachers? )小学校の先生の年齢比は

< 30 30-39 40-49 50-59
日本 10.1 26.4 40.8 22.3
米国 18.4 24.0 25.1 28.3

日本って20代の若い先生あんまりいないんですねー。40代が多いのはちょっと以外でした。

まとめ

いや、べつにまとめることはないんですが、日本の教育費のなかでは私費率が高いとか、先生の質がいいから日本の学力は高いとか言われていますが、データを見ると、やっぱり教師のみなさんがかなりがんばっているのが透けて見えます。国が高校無料化のためにお金を出すとか、ムダを無くそうとかいう前に、日本の能力ある先生がもっと授業時間がもてる仕組みを考えたほうがいいんじゃないでしょうか。私費率が高いならなおさら国民は「効率性」と教育効果を求めてもいいはずです。それと20代の教師割合が低いのも気になります。もしかしたら教師ってそれほど魅力的な職業に映らなくなっているのかもしれません。

posted at: Tue, 22 Sep 2009 11:35 [blog] permanent link/comments(2)

Mon, 21 Sep 2009

自分はどのタイプかというと...

仕事で人様に見せる資料をつくるため、一つの文の解釈や、その前後のつながりを周囲の人と議論することがときどきあります。なるべく正確に、簡潔に、矛盾なく、そして読みやすい文章という矛盾する目標を抱えているので、どうしても他の人との議論も必要なわけです。そうして人と話をしていると、考える方法がみんな違うことを感じます。

文章の力点の取り方や語句から受ける印象はもちろんなのですが、そこからでてくる像(イメージ)が人それぞれなんですね。頭のなかで「映像」や「画」が浮かんでるんだろうなーという人もいれば、頭のなかに「字」や「言葉」が浮かんでだろーなーって人もいます。

3つの感覚モード(モダリティ)──視覚傾向・聴覚傾向・体感覚傾向 で紹介されている3つの傾向でいえば、視覚傾向と聴覚傾向ですね。(私の仕事場はあんまり体感傾向の人は多くない気がします。)

自分はというと、たぶん視覚傾向が強いと思います。単に細かいところを覚えていないだけなのかもしれませんが、字面や文章そのものはほとんど頭に入っていません。頭のなかで情景、もしくはブロックか積み木があるみたいな感じです。なので組み合わせが悪い話は気持ち悪い。逆に、一見おかしな話でも組み合わせが正しければOKと思ってしまいます。良いのか悪いのか?

自分を含め、視覚傾向の強い者同士の話だと、ブロックや積み木の「変換ルール」さえできればすぐに話しはまとまります。しかし変換ルールができあがるまでに時間がかかったり、ブロックや積み木の大きさが違ったりすると話がややこしくなったり、まったく通じなかったりします。

聴覚傾向っぽい人と話すと次のような苦労することが時々あります。

例えば「その話、なんか前後でずれてない?」と自分が聞くときは、ブロックがずれてるような気持ちで(「ずれている」という表現からして視覚的です)、ジェスチャーなんかも左右の手を前にだして上下にずらしたりしてます。しかし聴覚傾向の人からすると、当然ながら(視覚的に言われても)よくわからないので「(字句でいうと)どことどこ?」となります。 視覚指向の強い人のジェスチャーって聴覚傾向の人にはあんまり役に立たないこと多いかもしれません。

逆に、聴覚傾向の人に「あの文章のどこそこの前後が、これこれこういう理由でおかしい」といわれても、ぱっとは浮かばず、指摘された場所を読み返し「積み木」にしてから「あぁ、おかしいですね。」となるわけです。たぶん相手からすれば相当まどろっこしい奴だと思います。

ちなみに僕は説明文のようなものも苦手です。職場で「絵書いちゃダメかな〜」と小学生みたいなことをいったり、絵ならすぐ描いて説明できるのになぁ・・・とかブツブツ言ってます(笑)

僕みたいな人は、職場では結構てきとーな人と思われがちなんで注意しましょう(笑)

posted at: Mon, 21 Sep 2009 13:32 [blog] permanent link/comments(0)

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