Sun, 20 Jun 2010

告白

ネタバレしますよ。

告白 松たか子

告白 松たか子

どうも扱っている題材のせいか、問題作といわれていたりするようなのだが、 原作はともかく、この映画はバリバリの復讐劇をベースにしたエンターテイメント作品なのである。

青みがかった教室風景に、フォトジェニックな雲天や雨粒のスローモーションがさし込まれる映画の前半は、 まるでPVを見ているような感覚で、メランコリックな気分が刺激される。 そして、自分の記憶と変わらない黒板と教壇の風景に懐かしさを覚えると同時に、 誰のモノとわからない携帯電話と匿名メールが映し出される瞬間、現代に強く引き戻される。

そして、松たか子演じる森口の告白で判明する犯人AとB、そしてそれらを取り巻く生徒の反応は、 表面的には多少ステレオタイプでありつつ、 かつて同級生の誰かを疎ましく思った、そんな記憶に連なるもののようでもある。

結果、観客は決して劇中の人物に自己を投影することはなく、 近しい第三者として森口の復讐を受け入れ、純粋な復讐劇の幕開けに立ち会うことになるのである。

中盤、森口はスクリーンから姿を消す。 代わって何も事情を知らない熱血青年教師が悪意なく、犯人Bの家庭を追い詰める。 青年教師とともに行動するのは、事情をすべて知り、森口を慕う委員長である。 彼女の冷めた目線は、第三者としての観客の目線とそう違いはないだろう。 並行して描かれる委員長と犯人Aとの出会いは、物語唯一の明るい光と思わせるが、 第二の悲劇と森口の再登場であっさりとその道はたたれ、復讐劇はヒートアップする。

冷徹に計画された森口の復讐のトリックとフラッシュバックで構成される終盤は、 現代的な手触りではなく、むしろ往年のサスペンスの名作を思わせる心理戦で、 ちらばったピースがはまっていくような快感さえ覚える。

そして原作にはない最後の森口のセリフが、復讐劇のクライマックスであり、森口の強烈な憎しみ発露に他ならない。 最後のセリフに込められているのは、本来、教師や大人が望むべきであろうシリアルキラー犯人Aの更生ではなく、むしろ更正することなど決して許さない、永遠に追い詰める、という意思表示なのである。

このセリフにより、森口は復讐劇という虚構のなかに閉じ、現実世界の問題には何も解答を提示しないまま、映画は終わるのである。 つまり、もし、監督が映画という虚構のなかに何か問題意識を投影しているならば、最後のこのセリフは不要である。

映画を見終えた観客はほぼ無言だった。 残酷で痛快な復讐劇の感想を言うことがはばかれるのか、問題意識にさいなまれているのかわからないが、 無言の理由の一つは、おそらく、単純に映画の残酷性だけではなく、 中学生の年代の殺人をエンターテイメントとして昇華させた監督の技法である。

posted at: Sun, 20 Jun 2010 10:21 [blog] permanent link/comments(2)

Sun, 06 Jun 2010

Aquamacsやめて、ふつうのEmacsにした。

タイトルどおり。

やっぱり、ime-patchが当たってないと使いづらいという結論になりました。

posted at: Sun, 06 Jun 2010 21:48 [blog] permanent link/comments(2)

Thu, 13 May 2010

プロってだいたいavailableでしょ。

slashdotを見たら、話題になっていたブログ

「子育てで残業できない女性はプロになれない」のか?

プロの条件は、2つある。有能である(able)ことと、いつでもつかまる(available)こと。夜9時・10時でも客から掛かってきた電話には応対しなければならない。さもなければ新しい仕事を逃す。子育てのために残業が出来ないという女性は、プロになれない。

件のブログでは、この内容に否定的な内容なのだけれど、僕は前半については、肯定的で、後半は否定的である。

警察官、サラリーマン、サーバーのお守り役、八百屋のおじさん、職業を限定しないで一般化する危険性はあるものの、 夜9時、10時くらいにかかってくる顧客からの電話には対応したほうがよいと思う。 すくなくとも電話は通じた方がいい。今なら着信履歴が残る。

それと、対応する = 残業する、という単純なものでもないだろうと思う。 先日、会社の人から「(会社の)携帯は切らないよ。だって、クライアントの会社つぶれたって話ならどうする?」という話になり、 続けて「その場で何もしなくても次の日早く出勤するとか対応できるでしょ」と。

僕も夜9時にかかってきた電話全てについて残業するつもりはない。 顧客からの連絡を受け、話をして、場を繋ぐ、メールを書く、誰かに連絡をつけるということができれば、 まっとうな会社相手の商売なら仕事は逃げない、悪いようにはならない。 相手だって非常識なのをわきまえているからだ。

まっとうな客の(致し方ない状況による)非常識な対応に応えて、責任を果たしたり顧客の信頼を得ることと、 にっこり「じゃ、時間外料金を代金に上乗せしますね」と言うことは違うと思う。 さらに、社畜だとか、残業、長時間労働、効率云々というのも違う。 そして、女性が子育てでプロになれない、っていのは全然おかしい。

ブログでは、先のプロの定義から見え隠れする長時間労働、アタマを使わない非効率な業務体質を批判しているけれど、 僕はむしろそういった、アタマか体か、長時間か短時間か、効率的か非効率化か、といった字面だけみたら 答えがハッキリ決まるようにみえて、実際にはケースバイケースで答えなんてハッキリしないことを決めてしまって、 ときに答えの反対側を批判したり、いろんな問題を押し込めるような、極端な「べき論」的デジタル思考のほうが世の中を悪くしてると思う。

「電話には出るべきだ」「いやそうではない」、
「ときに長時間労働も仕方ない」「それは非効率の象徴で改善すべきだ」、
「女性は子育てすべきだ」「いや、女性も社会進出すべきだ」
「郵政は民営化すべきだ」「いやそうではない」、とかとか。

posted at: Thu, 13 May 2010 21:38 [blog] permanent link/comments(1)

Tue, 11 May 2010

わりと快適なリビングでの音楽の再生

僕は、音楽配信データを買うことはほとんどないので、音楽データの記録媒体としてはCDを(まだまだ)利用しています。 とはいうものの、CDからMP3に変換してiMac上のiTunesで音楽を聴くことも多くなり、 CDをいちいち取り替えないといけないリビングがえらく面倒に感じていました。

今までの経験上、現代人的怠惰精神の持ち主である僕の悩みは、大抵既に製品化されて解決されているので、 ネットワークレシーバー、ネットワークメディアプレイヤー、ハードディスクトランスポート、DLNA、 あたりをキーワードにして探してみるのですが、なんだか全般的にかなり高額。 もしくはアンプ付き、スピーカー付き、映像再生とセットなどなどで今の資産(アンプとスピーカー)を生かせません。 (例えば、TransporterLINN。)

2009年後半では、「素朴に(ここ大事)、買えるお値段で(さらに大事)、ネットワーク上にある音楽ファイルの再生をして、アンプに送り込むだけのプレイヤー」っていう製品は見ありませんでした。

見つけられないなら、というわけでちょいちょいとマシンを組みました。それから半年が経ちボチボチ運用ができてる感じなんで書いておきます。

まず、音楽再生用のPCを1台組みました。うちのアンプはアナログアンプなので、プレイヤーとDACの役割を担うPCです。 ベースのPCはオリオスペックのファンレスPC、無音にするため32GBのSSDにしました。 このベアボーンキットはPCI拡張カードが搭載可能という点が優れもので、オリオスペックのサイトには、サウンドカードとしてSE-90PCIが載せられます、 とあります。今回は、SE-90PCIの上位製品のSE-200PCI

ONKYO PCI Digital Audio Board SE-200PCI
ONKYO PCI Digital Audio Board SE-200PCI /
オンキヨー

にチャレンジ。結果、スペース的にはかなりギリギリ、コンデンサのアタマがSSDに触れるか、触れないかぐらいでしたが載りました。

m350-945

あとは、ちょっとだけ奮発して、SE-200PCIのアナログ出力をアンプのライン側にいれるケーブルは、ケーブルからノイズが乗らないように少し良いものを使いました。

OSは家族が使うことやドライバのことを考えて、OSはWindowsXP HOMEにしました(だってインストールメディアがあったし・・・)。 あとは、家庭LAN内のNASに音楽ファイルを置いて、無線LAN子機(イーサコンバーター)

I-O DATA IEEE802.11a/b/g IEEE802.11n Draft2.0 ネットワーク対応テレビ用無線LANコンバーター WN-LA/C
I-O DATA IEEE802.11a/b/g IEEE802.11n Draft2.0 ネットワーク対応テレビ用無線LANコンバーター WN-LA/C /
アイ・オー・データ

をセットアップして音楽再生PCを接続し、H/W的なところはほぼ終わり。

音楽ファイルのフォーマットは、flacとmp3にしました。 前者はリビング再生と保管用。後者は携帯プレイヤーとiTunesサーバーでの音源です。 プレイヤーソフト(メディアプレイヤー)は定番foobar2000にしました。 winampやWindows Media Playerでも良いと思いますが、foobar2000の拡張性や機能性はすばらしいの一言です。

ちなみに、Apple派には、AppleLosslessとiTunesの組み合わせもありです。 iPod Phone/Touchには、Remoteというソフトがあり、 iTunesをリモートでコントロールでき、「リモコン問題」(後述)に対する強力な解決策になります。(たぶん。)

さて、そのリモコン問題というのは、音楽再生用PCは作れても、リモコンに相当するものはなかなか作れないことを言います。 正確に言うと、音楽再生用PCのOSやソフトのリモートコントロールはできるのですが、いわゆるリモコンというH/Wが(ふつうは)作れないことです。

単にリモートコントロールでよければ、リモートデスクトップ(XP HOMEだとダメだけど)やVNCですね。かなり面倒ですけど。 foobar2000には、foo-httpcontrolというプラグインが開発されています。 これを使うと、家の中のPCからブラウザを経由して、foobar2000を操作することができます。 (iPodやiPadがあればRemoteと同じことができるので、なかなかいい解決策になるかもしれません。)

私の場合は、音楽再生用PCからテレビにDVI-HDMI接続して、モニタ代わりにし、

モニタ代わり

ロジクール ディノボミニ DN-500
ロジクール ディノボミニ DN-500 /
ロジクール

をリモコン代わりにしました。接続はBluetoothです。音楽再生ボタンも付いているので、再生、停止ならテレビつけなくてもOKです。 なお、ボリュームはアンプの操作です。PC側はボリューム最大固定です。これ一応鉄則。

最後に、音楽再生用PCの性能について。CPUがAtomなのでそんなに期待はできません。 YouTubeの再生(HDは苦しい)、ブラウジングは問題なくできます。リビングPCとしても使えてます。

posted at: Tue, 11 May 2010 22:20 [blog] permanent link/comments(7)

Fri, 30 Apr 2010

月に囚われた男

Moon

まだ公開中だし、サスペンスの要素もあるのでネタバレは最小限でがんばる、つもり。

月で孤独に資源採掘に従事する主人公サム。3年の契約が終わる直前に起きた事故により、もう一人の自分にであってしまう。月には自分とロボットしかいないはずなのに。

というのが映画のあらすじ。SFがお好きな方に向けて書くとしたら

  • 2001年宇宙の旅
  • エイリアン
  • ガタカ
  • MOONLIGHT MILE(マンガ)

あたりを押さえておくと、映画がより楽しめるんじゃないでしょうか。

特に「エイリアン」との比較をしながら観ると面白いと思います。 舞台は月基地と宇宙船という閉鎖空間。主人公は資源採掘に従事する「宇宙飛行士っぽくない宇宙飛行士」、どちらも「企業」のエゴが見え隠れし、人工知能をもつコンピューターが物語の鍵を握る、などなど。「エイリアン」から30年立ちましたが、こうした設定はまだまだいけます。

ちなみに、30年前の「企業」は日系企業、今回は韓国系です。日本衰退(笑)

さて、映画の謎解きは、SFが好きな人にとっては、それほどびっくりするモノではないかもしれませんので、ストーリー全体では、もう一ひねり欲しいぐらいで終わるかもしれません。

一方、この映画のユニークなところは、一人きりで話し相手が欲しかった主人公(サムA)に現れた話相手が「自分自身」(サムB)った、という点です。SFではよくある状況ですが、大抵は周囲の人間も巻き込んだ騒動がおきますが、閉鎖空間に二人きりというのは珍しい設定かもしれません。

しかも、二人の性格は噛み合わず、互いの存在により、それぞれの存在が人工的であり期限付きであることが示される、という状況です。そして、物語の終盤、サムAの体は放射線に蝕まれ、サムAがすべての真相知ったときに、もうたくさんだ、と泣き崩れる様は悲しいという他に例えようがありません。

SF映画では、しばしば「自己」がテーマにあがります。自己とは何か、何によって生まれ、制限され、どう変化するのか。この取り扱い方にはいろいろなパターンがあります。「2001年」のHALのように、機械を通して描くこともあれば、ガタカのように周囲に規定される自己そのものを操作することで描くこともあります。

この映画では、考えの異なるうり二つの相手が思い出を鍵にわかり合えるシーンが示すように、記憶が自己のベースになっていると言っているようです。だからこそ、記憶を引き継ぐサムBが生き残ることで、主人公の悲しみを越えて希望を感じることができるラストに仕上がっています。 結構ダークな内容の映画なのですが、後味悪くしないのは監督のセンスかもしれませんね。

posted at: Fri, 30 Apr 2010 23:59 [blog] permanent link/comments(2)

Fri, 02 Apr 2010

アカルミライ

アカルイミライ 通常版 [DVD]
アカルイミライ 通常版 [DVD] /
メディアファクトリー

人とうまくやっていくことができない仁村(オダギリジョー)は、クラゲを飼う友人の守(浅野忠信)を慕いながら町のおしぼり工場で働く。 仁村は焦燥感や暴力性を押さえ込みながら、無目的な日常を送る。 ある日、守は殺人事件を起こし、守は自殺する。それをきっかけに仁村は守の父、有田(藤竜也)と暮らしはじめる。 守のクラゲは増殖し、川を流れて海へ向かう。それとともに仁村も変わっていく。

映画の筋書きはこんな感じ。さらにアカルミライというタイトル、生き迷い、時に暴走する青年、世代間の溝といった映画にまつわるキーワードがあれば、 どうしても時代性ということを意識せずにはいられない。 結果、閉塞感とか現代社会といった方向へのバイアスがかかりはじめる。 それが監督のメッセージの一つかもしれないし、観客の解釈の一つとしてあるとおもう。

オダギリジョーが演じる仁村の孤独感、焦燥感に共感めいたものを覚えない人はあまりいないだろう。 仁村ほどではなくとも、「ダメ」な時間、「ダメ」だった時間、どす黒い暴力性に身を任せたくなる瞬間、多くの人にきっとあるだろう。 それらに対して時代的な要因を求めてみてもいいけれど、かつての人間が全員前向きで善人で、明るい未来に生きてたわけじゃない。

守(浅野忠信)が飼う、毒をもつクラゲが何を意味するのか、どうして守の父、有田(藤達也)は仁村に「君たちすべてをゆるす」と複数形で話すのか、映画を観ながらずっと謎だった。

はじめ僕は、クラゲは守自身だと解釈した。触れれば毒を持つのは暴力性を隠し持つ守であって、そして有田は仁村と守にゆるすと言っているのだろうと。 さらに、獄中で守が命を絶つと同時に、仁村の家の床下のクラゲが光り出す。暗闇に妖しく光るクラゲは魂のようだ。 仁村もクラゲに守を感じ餌を川に撒く。

しかし、映画のラスト、有田の家にある守(の亡霊)が現れるときに、僕は、この解釈が間違っているのではないかと気がついた。

実は、クラゲとは仁村自身のほうなんじゃないか。クラゲが光りながら彼の前に姿を現すとき、仁村自身が前を向いて、彼の暗い衝動から解放されている。 たくさんのクラゲが光り輝くとき、仁村と高校生は生き生きとしている(強盗しているけれど)。 つまり、クラゲは若者の精神の台座で、光り輝くとき、善悪という文脈ではなく生きるという意味での暗い未来からの解放されているのである。

また、守は、仁村(的)な精神の解放を助ける者でありつづける。 守の役目は解放であるからこそ、仁村が獄中の守を待つと言ったときに激しい態度をとり、 その後、仁村が用意したクラゲの餌用の装置も(亡霊になって)壊してしまう。 そして、おそらく有田は途中から守の立場と目的に気づいている。 彼の「ゆるす」は「許す」であり「赦す」でもある。 守を兄とすれば、有田は父であり、彼らは仁村(的)な精神へ介入することはなく、その精神の様だけをどこまでも見つめている。

僕は、この映画から、こうした神話的ファンタジーを感じ取った。 時代性というよりは、男性的家族感とでもいえばいいのか。 (劇中、母は登場せず、映画の最後、母なる海に向かうクラゲ、とまでいくのは深読みしすぎだろうけど。)

こうした解釈が正しいかどうかは、わからない。正しいかどうかもあまり意味はない。 ただ、この映画はいろいろな解釈を受けつけられる(突きつけられる)だろう、という意味で傑作だと思う。

posted at: Fri, 02 Apr 2010 23:36 [blog] permanent link/comments(8)

Sun, 21 Mar 2010

アフタースクール

ネタバレしますよ。そして若干上から目線。

ジョークをちりばめた複雑な脚本、そして適切な謎解き、爽やかなエンディング、となかなか佳作ですね。 監督の巧みなディレクションに身を任せる2時間がここちよいです。

一方で、DVDを巻き戻してトリックを確認・・・とはなりません。

回想シーンをうまく使った謎解きのせいですけれど、このあっさり感の原因の一つは、 本当に悪いと思える人物がでてこないからです。 北見俊之演じる社長は登場シーンからすでに小悪人感満載で、伊武雅刀によるやくざの親分はどこかエキセントリックです。 佐々木蔵之介は、前半の「カネに困って切羽詰まっている奴」の印象のまま、最後に大泉に完全に負けてしまうダメっぷり。 このため、謎解きの快感はあるものの、「ここで犯人騙してるのか!/騙されているのか!」というようなカタルシスに近い感覚が薄いんです。

そして、ここから映画のもっとも重要な点です。 それは、トリックの中核を担うのが「大泉洋」だという一部の観客には非常に受け入れがたい、認めたくないキャスティング・脚本であるということです。 まず、前半の連れ回される大泉洋は「あの大泉洋」です。しかし、後半、佐々木蔵之介に詰め寄られても冷静さを失わずトリックを語る大泉の姿を想像できた人はいないでしょう。

たしかに、大泉の役柄を佐々木蔵之介、堺雅人が演じてしまうとトリックが半分ばれたようなものですし、 大泉が佐々木蔵之介の役を演じたのであれば、それはもう何かの焼き直し、またコイツ騙されてるよ、という既視感を覚える映画になってしまったでしょう。その意味では、監督の罠にキレイにはまりました。

しかしながら、内田けんじ監督の心地よく騙されつつ、あの大泉洋に騙されたという感覚、映画の感想としてはちょっとありえないものです。映画自体以外の文脈に影響されすぎかもしれませんし、上から目線すぎるかもしれませんが、だからこそ、軽妙な雰囲気だけを記憶にとどめ、リプレイをしない映画となるわけです。なんせ観客のプライドが許しませんので。

posted at: Sun, 21 Mar 2010 00:20 [blog] permanent link/comments(2)

Fri, 05 Mar 2010

好みの音楽と出会うためには

ガジェット通信 スクエニ社長がファミ通レビューに衝撃発言「あー言っちゃった」 から引用

「ファミ通の評価をどう思いますか?」というゲームファンの質問に対して、「活かすための読解力でしょうか^^  この人がこういうトーンで書いているという事は・・・とか。あー言っちゃった」と返答している。(中略)週刊ファミ通の『クロスレビュー』はゲーム購入者の評価とかけ離れている点数や評価の場合があり、「もう信用しない」という読者まで現れているほど。

ゲームはしないので、ファミ通のクロスレビューがゲームファンのなかでどういうふうに捉えられているのかは知らないけれど、おそらく音楽ファンも、年に100枚くらいに「史上最高」を連発するような音楽雑誌のレビューには一言二言、言いたいことがあるんじゃないだろうか。

実は、僕自身は、音楽雑誌と呼ばれる雑誌をほとんど買っていない。ネットやショップで情報を仕入れているし、某音楽雑誌にある(今もある?)「xxx2万字インタビュー」とか受け付けないからだ。 とはいうものの、こんな風にひねくれる(?)まえ、かつては毎月ちゃんと雑誌を買っていたこともある(お金がなかったときは立ち読みもたくさんしたけど)。 その結果は、雑誌全体では信じられないことも多いが、(特定の)編集者だけは信じられる、という単純なものに至った。

これまた当たり前だが、信じられる編集者とは、自分と同じものが好きな編集者、自分と同じような感覚を持ち合わせる編集者に他ならない。僕の場合は、elekingやremixの編集長、野田努さんという方が、まさにそれだった。他の人のレビューの点数が低くても、野田さんが高得点を付けた作品は僕には素晴らしかった。僕が好きな音楽を、野田さんが記事のなかで取り上げていたこともあった。

もちろん、野田さんは僕の100倍くらいの音楽を聴いているに違いない。僕の好みが、野田さんの広いアンテナの小さな共通部分であったことに違いはないが、とにかく自分の感性が雑誌を通して伝っていくような、伝わってくるような、そんなうれしさがあったことをよく覚えている。

今、音楽雑誌を買っていないし、読んでないから、野田さんがどんな音楽を好んでいるのかは分からない。ネットで復活したelekingのレビューを読む限り、遠くには行っていない感じがする。

レビューなんて気にするな、とか思わないし、好きなレビューワーを見つけるのにじゃんじゃん読めばいいと思う。ただ、ゲームも音楽も「この人がこういうトーンで」なんて大人びた読解力と裏読みは似合わないとも思うけどね。

なんか、ブログのタイトルとかけ離れたので、一つ具体的に。自分の好きなアーティストが好きな音楽、これを辿れば外れがないです。散財への道ですけど。

posted at: Fri, 05 Mar 2010 01:45 [blog] permanent link/comments(4)

Sun, 31 Jan 2010

ゴールデンスランバー(ネタバレするよ)

ゴールデンスランバー

ベストセラー作家伊坂幸太郎氏により、空き巣、通り魔、動物虐待、殺人なんでもござれの犯罪都市に仕立てられてしまった仙台市。 そこで起きた史上まれに見る大事件、首相暗殺事件が映画の舞台。 映画は、この大事件の犯人に仕立てられた男、青柳(堺雅人)の逃亡劇として進む。

と、書いてみるとなんだかスリルとサスペンスな話に感じられるのだけれど、 逃走劇として見ると、平凡かそれ以下。 派手なカースタントや、手に汗握るアクションと呼べるものはほとんどなく、 アクションシーンを下支えするはずの刑事(永島敏行)はどこかコミカルで、 犯人と警察の「息詰まる」ほどの駆け引きもない。 さらに、犯人に仕立てられてしまった主人公に感情移入できるような材料はほとんど何も提示されない。 たとえば、主人公の恋人が殺されてしまうとか、不条理な状況にさらに不幸が襲うようなありがちな状況が、ないわけではないが、どうも薄い。

思うに、映画として首相暗殺事件は大きなマクガフィン、 つまり、主人公が窮地に陥るという設定の下支えとして、多少の説得力があればよいのであって、 とにかく無理矢理犯人にさせられるような窮地に陥り、ストーリーのなかで大々的に報道されれば、事件は市長暗殺だろとコンビニ強盗だろうとなんでもいいのだ。

むしろ、映画で繰り返し使われる、イメージという言葉を中心にしてマスコミ、警察など主人公を追い詰める集団に対し、 主人公の父(伊東四朗)の言葉を借りれば、主人公を「信じているのではなく知っている」という1点で イメージにとらわれず主人公に協力する人間が描かれる映画、というほうがピッタリくる。 そして、逃走シーン以上に多用される大学時代の回想シーンや元恋人との思い出、仕事仲間とのやりとり、マスコミに登場する父の話によって、 観客は主人公と協力者の過去を「知り」、協力者へ感情移入することができるという人情劇なのだ。

スリルとサスペンス、カタルシス、そういうものを過度に期待しないで、2時間オーバーのテンポよく流れる人情劇として観に行って、 そして、信じられると知っている人を思い浮かべて帰るのが吉。

posted at: Sun, 31 Jan 2010 00:34 [blog] permanent link/comments(1)

Mon, 11 Jan 2010

大人になるって(松尾スズキさんのインタビューから)

1/9朝日新聞朝刊のオピニオンに掲載されていた、松尾スズキさんのインタビューがとっても面白かったので、感想なぞつらつら書いてみます。

インタビューは、18歳成人案を切り口にして、松尾さんの大人感や社会批評(的)なもの。 そのなかで、まず共感というか、妙に納得したのが、次のコメント

(インタビュワー)「大人になる」って?
(松尾さん) 「そこの定義は、自分のなかでものすごく変わりました。『大人失格』を書いたころは、たとえ毎日がどんなにつまらなくても、その現実を受け入れるのが大人だと思っていました。当時、30代前半で、常に『面白いか面白くないか』を問い、面白くないと、息が詰まりそうになって、面白いものに逃げてた。そんな自分を、まだまだ未熟だと考えていた」

僕はその30代前半で、同じように『面白いか面白くないか』を問う、という姿勢をとってしまうが多いです。この仕事面白いかな?面白くないな、面白い生活したいな、そんな感じ。 たしかにつまらないと息が詰まる。実はもっとつまらない仕事をしていたはずの20代より、息の詰まり方がずっと強烈になったと感じます。 だから、周囲を見回して、つらい仕事もこなし、家庭ではよき父、母なんていう人をみると「大人だなー」(=すごいなー)って尊敬してしまいます。

そうそう、たぶん、大人っていうのは尊敬の対象なんだとおもいます。

インタビューの次はこうです。

(インタビューワー)今の「大人感」はどうでしょう。
(松尾さん)「世の中にここまで希望がなくなって、豊かさもない、つまらないじゃ、ホントに、つまらなくなっちゃう。今の大人はむしろ『つまらない』といわない人だ。どうしようもない状況においても、自分の中に『面白い』といえる価値を作りえた人が大人、と思えてきた」(中略)「周りが面白がるものが生み出せれば、つらさも面白さに還元される」

なるほど。苦虫をつぶしたような顔で日常をやりこなすぐらいなら、面白さをみつけたり、たとえ自虐的になったとしても周りを面白がらせるほうがいいのかもしれない。 あんまり自虐的なのもつらいから、ふりぐらいにとどめたいけれど。

30代前半の僕は、心のどこかで「面白さ」が所与のものだと思っちゃっているんだろう。 辛い仕事も楽しいところが結構ある、面白さが与えられるものではないっていうのは、今まで何度も経験したはずなんだけれど、ついどこか忘れてしまうのか、 まだ『面白い』といえる価値が作られてないのかもしれない。

そしてインタビューの後半、お笑いの話になって

「(中略)今の日本はあまりもコミュニケーション重視。特にテレビのバラエティーとかは、空気を読む能力を極限までに求められる」

たしかにそう。ちょっと外したコメントをすると「あーぁ(残念)」っていう反応。期待通りのコメントで、期待通りの計算された笑い。ヒネリだって想定内。

勝手な考えなんだけれど、空気を読んだり、期待通りの結果って、子供が好きなんだよね。 子供って無意識に空気読むし、おもちゃが動いてくれないと怒ったりするし。 子供が成長して少し自我がでてくると意識的に空気を読み始めて、さらに大人になると「コミュニケーション能力」ってことでトレーニングしないといけなくなる。

空気を読むってのは、自我のぶつかりあいを避ける処世術の一方で、結局自分の価値観、面白いものを作るのを遅らせる、子供に留まる副作用があるのかもしれないね。 仮にそれが正しいとして、空気を読まないイレギュラーな行為をどうするか、つまらない、腹立たしいと放り出すか、笑って肯定するかが松尾さん的大人の分かれ道なのかもしれない。 現実的に、空気読むなんて関係ない、とはなかなかいえないけれど、同じ空気をまとう集団やルールから外れたって面白いのはいいんじゃない、面白くしようよと言えるのは、たしかに相当大人だよね。

そういう大人めざそかな。空気読むなんてお子様のすることさ〜って。

posted at: Mon, 11 Jan 2010 22:27 [blog] permanent link/comments(3)

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